みえかくれ

Tags

一生懸命働いているとこは
見せなくてもいいです

悲しみをこらえて笑うのは
こっちにも分かるんです。

無理して話しをしなくても
黙ってていて気まずい思いを
する方がいいんです

ベットの上で作る詩は
絶対書き残しちゃいけないんです

天井とこのベットの間に
いくつもの悲しみがみえかくれ
昨日は5つ
今日も5つ

自分が謙虚だという人は
たいていよくしゃべるんです

地球温暖化に真剣な人は
移動はいつもくるまなんです

お金が無いって断る人は
お金が実はあるんです

疲れてるが口癖の人は
実は何もしてないんです

天井とこのベットの間に
いくつもの悲しみがみえかくれ
昨日は5つ
今日も5つ

 

26.06.2017

戦争と宇宙とダンス

Tags

, , , ,

明日は71回目の広島原爆慰霊日がやってくる。去年、2015年のこの日はドイツのSchloss Brollinで2週間の舞踏ワークショップに参加していた。様々な国からくる、様々なBackgroundの人たち。芸術を創造性を愛する人たちが集まったそのワークショップのテーマは福島・広島だった。去年は東日本大震災が起こってから4年目。福島原発の報道もメディアではすっかり下火に、しかも、遠くヨーロッパの地ではその印象も一つの「過去の出来事」になっているような、頭ではわかっていても、切実な危機感というものがなくなっているような、そんな気持ちがしていた。日本人参加者も20人くらいはいただろうか、Non-Japaneseとの間には福島や広島への理解や想念とはギャップがあったように感じた。それは僕がJewsの民族浄化の過去から現在に続く苦しみや、ルワンダでの大虐殺、Pol Potの人民大虐殺へ対する想念の違いと同じもので決していいとか悪いとか言っているのではない。

確か、8月6日の朝だったか、僕のおばあちゃんが残した原爆体験日記を約100人の参加者・スタッフの前で披露する機会をもらった。最高音質のマイクで語った体験日記に多くのひとが涙を流していたのを今でも覚えている。多くの人が「ありがとう」といっているのを思いだす。

僕はお涙ちょうだい的な趣で読み上げたくなかったし、本当の平和は個人それぞれが平和と感じることで初めて成り立つものだと思っているから、何かしら考えるきっかけになればという想いのほうが強かったし、そのスタンスは今でも変わっていない。何しろヨーロッパにはまだまだ原子力発電所は何百とあるのだから、原発・原爆の話は決して無関係なでは全くない。。https://www.iaea.org/PRIS/CountryStatistics/CountryDetails.aspx?current=DE

じゃあ、どうやって平和を作っていくのか。それは本当に難しい問題だと思うし、この地球に本当の平和が来るのは人類が滅亡してからしか訪れないだろうと真剣に思っている。そして、人間がいなくなったとき、この概念としての「平和」がなくなり、無へとかえっていく。戦争、憎しみは絶対になくなるはずがない、それは喜びや悲しみがなくならないのと同じこと。

広島に生まれると否応なく戦争教育を12年間、或いは16年間受けさせられる。何の教育にも言えることだが「受けさせられる」というところが問題だ。広島人はあまり「戦争・原爆」のことを話したがらないのは、ある種の。ダイアログに乏しい、戦争や原爆、「平和」という変わりゆく観念にDiscussionがないのが問題だ。

うちの祖母の戦争の話を聞くと、それは悲しいけれど、美しい。愛しい人をなくすことで生まれる新たな想い、強さ、よみがえる楽しい思い出。おばあちゃんは、戦後60年あまりたって、当時の思いをつづった。その中で「これを運命としてかたずけたくない」といっている。これはとても興味深い言葉であると思う。「運命」。10年目の結婚記念日に夫を亡くすという運命。再婚し、子供ができ、僕が生まれ、その僕がこうやってブログに彼女の話をUpdateする運命。これはやっぱり運命だ、と僕は思う。だからこそつらく、美しいのである。この瞬時に起こる地からくる強さ。

昨日、一つの本を読み終わった「宇宙の根っこにつながる生き方」天外伺朗著。この時期にこの本を読むことも運命。友達が、たまたま持っていた本を「おもしろいよ」といって貸してくれた。

ここにはこう記してる。「宇宙の愛を感じるのが本当の幸せ」といっている。宇宙において人間があるのではなく、人間は宇宙のほんの一つの共同分子といっている。すべてが連続する瞬間的な必然であり自分が意思をもって行っている決定でさえも「集合的無意識」によって作られている。そこにからむ「想念」というものがその集合的無意識に働きかけて、幸せな人には人が自然に集まり、病気をする人は常に病気をするという現象が起こるという。「運命」といういうと、外部の何者かにコントロールされているような感覚があるが、その運命も自分の「想念」が無意識化の自分と結びついて物事が起こるということになるのだそうだ。

おばあさんの最初の旦那が被爆した、あの何万人もの中からなんとか居所を見つけ、4日間だけだけれども看病し、10年目の結婚記念日に死別したことが必然だったとすれば、その先の第二次世界大戦、満州事変、日中戦争、日露戦争、江戸幕府無血開城そいうった過去のさかのぼる一連の出来事も、再婚、出産、孫の誕生という現在へ向かう一連の出来事も、すべて私たちの「想念」がもとでできた「必然」で出来上がった「この世」ということなのだとすると、一人一人の「想念」の正しさというのは恐ろしく大事になものになる。

天外氏はこの「宇宙の愛を感じる」ためには私たちの個としての自我の衣、そしてその下にあるSelfの部分、そしてこの下にある集合的無意識の部分。ダンスでどこまで掘り下げられるか。

 

ダンスの探求

Tags

, , , ,

(2016年6月13日のメモをもとに)

「誰でも(ダンスを踊れる)Ingredientは持っている、それをどう料理するか」

これは舞踏家のYumi UmiumareがFOLA(Festival of Live Art 2016)の帰りに言った言葉。前回書いた「信念」というブログにも関連するが、自分のIngredientをどこまで上手にくみ取り、肯定し、受け入れるか。性格に個性があるように、体にもその人それぞれが持つ個性が、つまり癖がある。生まれ育った環境、風土、しつけ、教育、社会通念、性別、社会での地位をもとに。そして、それらのIngredientをどのようにPerformativeなCreationに生かしていくか。

一方で、もう一人のMentorであるTony Yapはすべての人間が共通して持っている無意識の体の反応に焦点を向けている。これはTranceをPHDを勉強している彼の最大のテーマである。上野圭一氏の著書「ナチュラルハイ」によると、Trance(彼の言葉は”ナチュラルハイ”)は、毎日日常のなかで起こっているほど、その範囲はひろい。薬物によるハイ、マラソンや水泳をしていて極限を超えたときに起きるハイ、瞑想しているときにおこるハイ、緊急時に起こるハイなど。

すべての設定を細かく決め、疑似世界を作りあげているシアター。そこには人間の「理解を超越した世界」を欲する本来持って生まれた特性があるのだろう。それでは、如何にしてその潜在的にもった「神秘的な体の能力」をPerformative(パフォーマンスように)仕上げていくか。TonyはPerformanceもTheaterも「虚構を真実にそっくり作り上げる作業」という。コントロールを失ったダンスの美的観点はコントロールされたそれに比べて低い(それはいいわるいとか問題ではなく、異なるものだ)。

世阿弥は「風姿花伝」の中で、その道の師ついて学ぶことを強調している。特に若い時に自分の思うように自由に作風を作り上げていくことを強く戒めている。35歳で始めたダンスは、思わぬ方向で僕を動かしていく。同時に、「師」という人を持たない、持たなくてもよいオーストラリアの地において、世阿弥が言ったその言葉をつくづく感じている今日この頃である。

「誰でも(ダンスを踊れる)Ingredientは持っている、それをどう料理するか」

1年後の僕に、このブログを読んだ時にどんな旅をしているだろうか。そんなことを思いつつ今日はとめどなくダンスについて書いてみた。

12487275_10208242629573251_4388727077824970540_o

 

 

 

Ulla Brandenburgの世界

Tags

, , , , , , ,

今日は兼ねてから予定していたUlla BrandenburgのエキシビジョンをACCA (Australian Centre for Contemporary Art) へ見に行った。

彼女のProfileに下記の一節がある(このサイトから抜粋)

Concerned with ‘the borders of different consciousness: past and present, alive and dead, real and illusionary’, von Brandenburg creates work positioned uncertainly at the point at which reality ends and the illusion of life, emotions and events begins.

猛烈に面白いのはこの「現実と幻想、感情、イベントが始まる不確かなポジショニング」というところ。これはある意味で「精神世界(3次元を超えた世界)と肉体世界(3次元)をとても上手に、或いは西洋的に描写していると思うのである。僕なりに、そして日本的に、或いは禅的にいうのであれば、ある真夏にうっそうと茂る緑に囲まれて目をつぶる、そこに感じるみなぎる新緑の躍動感、セミの声と共に移り行くその瞬間に感じる風、ここは現実であるはずなのに、精神は完全に「我」を超越したところにいる。自分という存在がその緑となる瞬間。

彼女の作品の一つに「Around」というVideoインスタレーションがる。5-6人のダンサーが中心にお互いの肩が触れるぐらいに集まり、背を向けて向こうを向いている。場所は、どこか工業地帯付近の道路のよう。車は走っていな。白黒Super 16mmのカメラがその集団の周りをゆっくりを弧を描いて回っていく。こちら(カメラ目線)としては、常にダンサーの正面を見ようとするわけだ。でも、カメラが旋回すると同時に、ダンサーたちもゆっくりと旋回していく。決して、顔を見ることはない。2:45の作品は再び最初の場面に戻る。見ていると、自分は「見よう」としているだろうが、果たしてそれが本当なのかと思ってくる。こちらの動きに合わせて彼らがゆっくりと旋回していくので、こちらの動きが先にはじまりのだ。踊りをイニシエイトしているのはダンサーではなくこちらではないのか。

Ulla曰く、白黒フィルムというのは、時間を超越する、つまり時間枠コンテキストを取り払うこという心理学的な効果があるそうだ。ダンサーの服の色や、建物の色、看板の色からはいわゆる社会的なコンテキストに深く影響されることがある。UllaのほとんどのFilm Pieceは、したがって白黒である。舞踏の白塗りも大野一雄さんがはじめたらしいが、自分が戦地から帰ってきて自分はもう死んだものだという「現世界では存在しない」その精神世界を表現したかったのだろう。その話がほんとかどうかは別にして、白塗りのEffectはコンテキストを取り除く舞踏にはもってこいのMake UPになったのではないだろうか。(そういえば、細江英公の写真も確かに白黒が多い)。

もう一つ印象に残った作品として「Dance Macabre(恐怖のダンス)」という作品がある。これは、Sardegna島で今も踊り継がれているMamuthoneという踊りである。男だけが舞うことを許され、面やCowbell(牛につけるベル)を付けているシーンを見られてはならない。解説ではこの踊りは他国からの侵略が茶飯事であったころ、この踊りによって他者の侵入を防ぐ儀式として始まったとか、あるいは、農耕が主な産業であったため、五穀豊穣の儀式として始まったとか、その発生の起源はさまざまな説がある。Christianityがヨーロッパを覆う前の2000年前に始まったとみられ、いわゆるCatholic的な宗教要素は含まれていない。むしろ、どこか南方アジア的な(マスクをつけるところも)Sharmanistic的儀式だ。これを見たときに、何事かわからないものへ対する恐怖、人を寄せ付けない感覚からくるある種の疎外感と同時に「怖いもの見たさ」的な、だからこそ惹かれる何かを感じた。儀式は儀式としてその地で受け継がれ、そして、その起源・発祥がはっきりしていないものも少なくはない。ただ、そのあいまいさを含めたものこそが「儀式」として効力を持つことも多い。この儀式的要素を芸術の分野で使うことは、最近の現代美術で多く試みられることであるが、作品にした段階で、その「効力」が薄っぺらい表面的なアートになり下がることも少なくないと思う。一方で、この「Dance Macabre」の作品ではその味わいがとても上手に醸されている。従来は列をなして一方向に踊るMamuthonesのだが、作品では面をかぶった男たちの中心にカメラがたち、そこを中心に男たちが踊りまわるのである。白黒、手持ちのカメラ、男が4人くらいがキャプチャーされる距離感で一節が執り行われる。何とも言えない、独特な緊張感は一定のこの「距離」が絶妙だからなのか。

この儀式性と芸術の関係のメカニズムは、岡本太郎がとても上手に表現している。

「…相手に何からの形で認められるという要素がなければならない(儀式性)。それがなかったら、働きかける力をもたない。だが、全面的に受け入れられ、好かれてしまったら、また呪力を失ってしまう。ともに芸術として無存在だ。」

今まで、西洋人が考える「儀式」、「スピリット」とはどうもChristianityと切っても切れない、そしてその根底にあるギリシャ哲学、フロイト的心理学の影響をうけたものという見方が強かった。一方、アジア芸術の根底にあるものはAminism、Sharmanismというものに代表される、自然と人間との関係性における解釈の影響が大きいと思う。Brandenburgの作品をみて、驚きとともに安心感を感じた。